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​私の病歴

  ~病名判明~

​転院した国立病院には精神神経科という科があり、精神科と神経内科が一緒になっていて、まず到着すると
問診や神経学的検査が行われ、その時点でいくつかの病名に絞られたようで、すぐにテンシロンテストが行われました。
テンシロンテストでは何年か振りに目が開き、今にでも歩けるかのような感覚になり、スーっと息が吸えました。
その時点で、これでほぼ重症筋無力症だろうと思われていたようなのですが、他の病気も除外するためにと2週間かけて
あらゆる検査をしました。そして症状が出始めて6年目にしてやっと“重症筋無力症”と病名が分かりました。
同時に橋本病という合併症も判明しました。幸い橋本病の方は甲状腺機能の異常まではなく落ち着いている状態でした。
しかし重症筋無力症は抗体が4180と、当時の担当医も今までに見たことのない驚くほどの数値だったようです。
~治療開始~
症状からも危険なほどの重症で、抗体陽性のMG(重症筋無力症)には胸腺を摘出するのが第一選択なのですが
体が弱り過ぎていて手術に耐えれる状態ではないとの事で、とりあえず薬物療法で体の状態をもう少し上げてから手術しようと
なったので、翌日からすぐにパルス療法が始まりました。
パルス療法を始めて1週間目、初期増悪のためクリーゼを起こし、また人工呼吸器生活に逆戻り、パルスは中止。
ある程度の自発呼吸が戻るの待っていましたが、なかなか戻らず当時未認可の免疫グロブリン療法をすることになりました。
この免疫グロブリン療法が効いてくれたため呼吸器だけは外す事が出来ました。
~C型肝炎判明~
それからは、もうこれ以上 薬物療法も出来ないという事で、危険な状態ではあるけれど、手術をするしか選択肢がなく
手術してくれる病院や日時を決める段取りに入り、その術前検査で、免疫グロブリン投与前には陰性だったC型肝炎抗体が
投与後、陽性になっていてC型肝炎に感染している事が判明しました。
(当時はもう血液製剤は加熱処理されていて感染はありえないといわれる時代だったのですが……私はどこまで運が悪いのか…
 一応ロットナンバーまで調べてはくれたのですが感染経路はわからないままでした。)
C型肝炎もネックになり、なかなか病院が決まらず、その間に肺炎になったりMRSAに感染したりと、また生死をさまよう日々を
送っていました。毎朝、助手の女医先生が話しに来てくれたり、看護師さんが雑誌やCDをもってきてくれたりしたのですが
声もでない喋れない、水すら飲めない私は自暴自棄になっていたため、殺してくれだの、本を投げつけたり最低な患者だったと思いますm(__)m
~手術~ 2001年(25歳)
そんな入院生活が半年近く過ぎたころ、手術をしてくれる病院が決まり2001年3月19日(月)胸腺摘出術を受けました。
術後は日に日に体が軽くなるのを感じていました。1週間目には何年か振りに自分の足で立ち、何歩か歩く事ができました。
​この時点で抗体は2200まで下がりました。
気管切開のカニューレの交換で看護師さんがカニューレとレティナと間違えて持ってきて交換し、声がでるようになり約1年ぶり
に両親と会話をし、親戚に電話をかけました(笑)入院前から構音障害があったため、私の言っている言葉がハッキリ分かった
のは7年ぶりぐらいでした。
術後2週間目、口から何か食べてみようと先生の前でプリンを食べました。口から物を食べたのは約1年ぶり、こんなにスムーズに
味わいながら食べたのは7年ぶり。今でもあの感覚は覚えています。
食べ物を口から食べるようになると、人間の体はすごいもので体重も順調に戻っていき術後1年後には生理も再開しました。
あとはまた薬の調整とリハビリのため前の病院に戻ると、私の回復ぶりに医師・看護師さんともに、とても驚いていました。
リハビリの毎日とプレドニンMAX60mgからの減量。しかし私はプレドニンが合わないようで、どうしても初期増悪がでます。
クリーゼまではいかないものの、体が動きずらくなる。それでマイテラーゼで調節を行いながらプレドニン40mgで
約1年半ぶりに退院!
家での生活は、まだまだ普通の生活が普通にできる訳ではなかったですが、自分でトイレに行け、ご飯が食べれ、話ができる
という生活ができるだけで当時は充分でした。
2週に1回と通院し様子を見ながら術後半年、クリーゼを1度も起こすことがなかったので気管切開を閉じることになりました。
普通、気管切開はガーゼをあてていれば勝手に閉じるものなのですが、私は切開してる期間が長かった為、閉じる手術を
これまた切開気管が長かったため、どうしても構音障害が残るだろうと言われて、手術とリハビリのため1ヶ月入院。
2002年(26歳)
この時点での抗体は初の3桁950と順調に下がっていました。
ただ、どうしてもプレドニンの副作用が嫌で、当時は免疫抑制剤も主流ではなかったので、ゆっくりゆっくり約1年ほどかけ
0にしました。同時にマイテラーゼの量は増えましたが…
2003年(27歳)
抗体は順調に減っていっていましたが、やはり風邪などを引くと悪化。入院。
免疫抑制剤プレディニンを始めるが、C型肝炎が悪化し中断。この頃から慢性肝炎へとなっていきました。
この年、国立病院が独立行政法人に変わると同時に精神神経科が廃止になり赤十字病院へ転院する。
2004年(28歳)
C型肝炎も当時はインターフェロンがありましたが、MGがあるためできず、先生からは「いつか必ず薬が出来るから」
言われ続けてました。
2005年(29歳)
抗体も順調にさがり300などとなっていました。プレドニンも免疫抑制剤もうまくいかないためマイテラーゼのみで
コントロールしていました。MGとC肝と、まだまだ日内変動もあり仕事などは出来ないまま簿記等の資格勉強をしながら
過ごしていました。
治療をしていないC型肝炎がすこしずつ悪化してたのか、血小板が下がり始めました。
2006年(30歳)
この頃から抗体が停滞しはじめ3桁を切ることはなく、もう1段階体の状態をあげて社会復帰できるようにと
ステロイド・免疫抑制剤の話が何度もでましたが、私的には自分で歩け、ご飯も食べれて、話が出来ているので充分だったのと
いつか子供を産みたかったのと、また薬が合わなかったらという理由で拒否し、ずっとマイテラーゼのみで過ごしていました。
~妊娠・出産~2007年(31歳)
肝炎が少しずつ悪化していき、血小板が70000まで下がりました。でも何も治療はできずウルソのみで過ごしていました。
そして、この年の年末に妊娠していることが発覚しました。
2008年(32歳)
相手は結婚する意思がなかったようで、産むか産まないか・この体で産めるのかC肝は遺伝しないかと とてもとても悩みましたが
先生方からも難しいかもしれないと言われましたが、私は小さい頃から友達みんなに公言していたぐらい早く結婚して
お嫁さんとお母さんになるのが夢だったのと、もう32歳という年齢、生きるか死ぬかで諦めていた1番の夢が1つ叶うかもしれない。と
私は強引に「どうしても産みたい!」と両親・親戚・先生と伝えました。
唯一、親戚が支えてくれると言ってくれ、両親・先生方も理解してもらい未婚で子供を産む決心をしました。
先生方もいろんな想定を考えながら神経内科・産科・新生児科と連携しながらプランを立ててくれまた。
MGは妊娠中期は安定すると言われているとおり、マイテラーゼは飲み続けていましたが、順調に妊娠生活を送っていました。
~ITP判明~
しかし後期になり血小板が下がり始め50000~30000となり、ここで1度血小板の詳しい検査をしてみると
肝炎からではなく特発性血小板減少症(ITP)の抗体があることが分かり、特発性血小板減少症(ITP)と判明しました。
お腹が大きくなってくると体も重たく呼吸も苦しく数百mしか歩けなくなっていきました。妊娠8ヶ月で入院することとなり
出産にどのぐらい耐えられるかと色んな検査をしましたが、もう自然分娩は無理だと言うことになり、下半身麻酔も危険だという事で
全身麻酔の、血小板もいつ上がるかと毎日検査していたのですが上がらず、血小板輸血をしながら出産が決定。
赤ちゃんの成長と私の体力・先生方の予定もふくめ36週・2008年7月31日15:56に2468gの男児を出産しました。
産後直後はやはり自発呼吸ができずICUでの人工呼吸器になりました。
子供も全身麻酔からの影響か血圧が安定せずNICUに入り治療を受ける事になりました。が、先天性筋無力症もなく
C肝抗体もなく、血圧も日に日に安定してくれました。
私は翌日からパルス・血漿交換と、産後には悪化するというMGに先手先手を打っての治療が始まり、2日目で抜管・1週間目で
​一般病棟へ戻ることができました。
それからはプレドニンの少量投与・免疫抑制剤のネオーラルでの治療をしながら、赤ちゃんのお世話を学びながら
産後約20日後に親子で退院しました。
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