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私の病歴

 ~病名が分かるまで~

​  1994年(18歳)~2000年(24歳)

当時、自転車で30分程かかる高校に登校していたが、登下校に1時間近くかかるようになってくる。
この年に教習所に通い、眼瞼下垂・複視が始まっていたのだが、その時は緊張からだ思っていた(笑)
腕に力が入らなく洗髪・ドライヤーがうまく出来なくなってくる。
この頃から体がおかしいと思い初め1人で、近所の病院などに行ってみるが思春期特有のものと言われる。
食べ物が食べにくく、ごっくんが うまく出来なくなってくる。また同時に少し喋りにくくもなってくる。
当時、ハイツの2階に住んでいたが、階段が普通に上がれなくなってくる。
何件も何件も病院を回り、血液検査・頭部CT等してもらうが異常なし。
(病院は近くの医院・中規模病院・市民病院など20件以上は回りました。運が悪かったのか、日内変動のためか
どこの病院の医師も重症筋無力症だと分からず、重症筋無力症に行われる検査は1つもされず病名は分からないままでした。
ある日、友達と徹夜で遊び、帰ろうとした時、呼吸困難になり人生で初めて救急車で運ばれる。酸素吸入で落ち着いた為、
精神的なものだろうと診断され、カウンセリングに通い始めることになる。
救急車で運ばれたり、だんだん、眼瞼下垂も常に下垂していたり、表情筋異常が出てきていたので笑顔が出来なくなっていたり
構音障害・嚥下障害も出はじめていたため、家族・親戚も おかしいと思い始める。
(でもどの医師も精神的なものだというので当時は私も家族も常に暗闇の中でした。良いカウンセラーが居てると言われれば行き
 時には宗教的なものに頼ってみたり。。。)
仕事も、その時その時に出来る仕事と何度か転職しましたが、日常生活もまともに出来なくなってきていたので仕事も出来なくなる
呼吸困難や食べ物が喉に詰まって呼吸停止寸前などの症状が月日が経つにつれ多くなり、
多い時は月に数回 救急車で運ばれるようになる。         
常にお腹は空いているが嚥下ができないため体重が30kgまで落ち、歩く事もしんどく、生理も止まり、風邪もひきやすくなる。
ある時の風邪が引き金となり、もう自分で起き上がる事もトイレに行く事も、唾液を飲み込むことも出来なくなりました。
また救急車で運ばれ、その時の医師が少し大きい病院の精神科で体も含めて検査して下さい。と国公立の病院へ紹介しくれました。
その病院には拒食症やうつ病の人などが入院できる精神科があり、まずそこを受診。すると私の激やせぶりに、栄養失調状態だから
とにかく栄養を鼻から管を入れて強制的に取るためにと即入院。
やっと入院できて、元の体に戻れると思っていたのですが、まだまだこれからが地獄でした(''Д'')
まず入院して鼻から入れる管(マーゲンチューブ)を入れる際の麻酔ゼリー(キシロカイン)が嚥下障害のため
どんどん気管に流れ込み、咽る事も出来ない私はチアノーゼまで起こしながら、何日も挑戦し やっとの思いで挿入。
同時に私は「ヒステリー」と診断されていたため、安定剤を飲まされる事になる。
その安定剤が重症筋無力症には禁忌薬だったため、症状が急速に悪化。
まともに歩行も出来なくなり、自分で着替えや排泄も出来なくなっていったため、オムツを付ける事となる
マーゲンチューブからエンシュア(高栄養ドリンク)を入れているため下痢がひどく、何度もオムツ交換をしてもらうが
「ちょっと腰あげて~」とか言われるが、そんな事できるわけもなく「ちょっとは協力してよ!」と言われたり
精神科では毎朝、パジャマから洋服に着替え、ラジオ体操をし、掃除をし、週1回のシーツ交換も自分でします。
そんな事、私にはできる訳もなく「甘えてるばっかりじゃ良くならないよ」などなど(^-^;
ちなみにそこは精神科ですので窓には鉄格子があり、夜になると病棟に鍵がかかり閉鎖病棟となるような病院でした。。。
ただ、精神科の医師ということもあり担当医は親身でした。
食事するのに2時間以上かかる私に「外来まで時間あるから一緒に食べよう」と1時間以上 私の食事に付き合ったり
毎日あるレクレーションに私を連れだしたり、夜中に私の部屋に来て「必ず何とかしてあげるから」と言ってくれたりと。。
その間にも症状はどんどん悪化。心停止まで起こすクリーゼを何度も起こすようになり、目が覚めれば家族が泣きながら私を囲って
いたりと……当時、家族も覚悟はしていて下さい。と言われていたようです。
何回目かのクリーゼで、どうしても自発呼吸が戻らないため、ずっと人工呼吸器はつけれないとのことで気管切開をすることになり
昏睡状態の私はそんな事も知らず、目が覚めたらICUで気管切開がされていて、声が出なくなりました。
それからは筆談で医師や家族に「どうして勝手にこんな事したんや!」と、毎日のように泣いていました。
私のベットの頭の上に、いつも看護師さんが使うハサミが置いてあるのを分かっていましたが寝返りも自分で出来ない私は
自殺すらできませんでした。両親も毎日病院に泊まり込み私の介護をしてくれていました。
毎日毎日ただただ天井を眺め、自分はいつ死ぬのかと恐怖と不安で まさに地獄の日々でした。
もう、この頃、夕方になると毎日クリーゼを起こすようになり、ただ気管切開をしているため すぐにレスピレーターに繋げ
なんとかその日も死なずにすむという毎日でした。
すると、ある朝突然 担当医が「今から転院するから」と注射を打たれ救急車に乗せられ国立病院に転院することになりました。
当時、私は突然救急車に乗せられ、どこの病院に運ばれたのかも分からず、完全に見捨てられたのだと思っていたので
ちゃんと、お礼もしないまま、「この病院なら治してもらえるから」という言葉が担当医との最後の言葉になりました。
(後に聞いた話によると担当医は私が精神的な病気ではないと判断し、病院のルールや部長の意見を無視し
 個人のつてを頼りに私を受け入れてくれる病院を探してくれたそうです。)
そして、この転院が私が今こうして生きていられる運命の選択でした。
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